- 本書のあらまし
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戦後日本を代表する陶芸家のひとり、八木一夫(1918-1979)の没後25年の大規模な回顧展を、京都の国立近代美術館で見たのは、確か2004年の秋だった。今ではもう、山田光(陶芸家 1923-2001)も鈴木治(陶芸家 1926-2001)もこの世におらず、彼らによって結成された「走泥社」も活動を終えて、今はもう歴史のなかに静かに息づくだけだ。
この本のタイトルにもなっている「オブジェ焼き」とは、1954年に開かれた著者の個展の展評が雑誌(「美術手帖」1955年2月号)に掲載され、その記事に「火を通した土のオブジェ」と書かれたことがきっかけとなった。その後、主に陶芸家らによって、器など実用を伴わない造形的な陶芸作品を示す呼称として広がって定着し、八木作品はその象徴的な存在となっていった。
本書は、著者が生前上梓した「懐中の風景」(講談社 1976年)を中心にし、さらに没後に編まれた「刻々の炎」(駸々堂 1981年)から数編を加えてまとめられたものだ。
生前の著者をよく知る美術ディーラーは、原稿用紙全体が鉛筆で薄黒く汚れるほど書いては消してを繰り返し、まるで文章をねじり出すように原稿を書いていたようだといっていた。そうだとしても、やきもの作りを生業としながらその傍らで、これほど多くの達意の言葉を書き残せる能書家は、そうざらにいるものではないだろう。陶芸や美術について、また芸術家たちや自身の出自、あるいは京都の街や暮らしの身辺から材をとった随筆など、まっすぐな思いにシニカルな視線が絡まった文章は読み応えがあって面白く、濃厚でそして上質だ。
- 本書の魅力
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まず、ほんの短い随筆だから、著者の筆の冴えと実力を知るためにも、第3章に収められた「懐中の風景」「悲鳴」「枠」あたりの文章に、目を落としてみるとどうだろう。
そうして、興味を惹かれるページから手をつけて読み進みつつ、次第に奥へと入っていくと、ここに集められた文章は、様々な立場の読者を想定しながら書かれたものということが見えてくる。なかでも手厳しいのは、同じもの作り、とくに自身も含んだうえでの陶芸家に対してだろう。
たとえば、作り手に向けて「わざとのゆがんだ古拙ぶりからは、意識が自然の擬態をとったというむなしさを感じさせられる」(信楽・伊賀焼の鑑賞)といい、もうひとつだけ挙げれば、「未熟が"素直"、下手が"意識"、仕損じが"味"、などといういい廻しや読み代えは利かなかったのである。......中略......『為したこと』と『なったこと』との危うげな紙一重の境界線を、観客の側はともかく、作者の側でみすごすわけにはいかぬ」(伊万里三百年)と記される。日本の陶芸が抱えた曖昧な領域にあって見えにくいものを、理性的に整理し解いてみせてくれるようだ。
もちろん、作り手だけでなく矛先は鑑賞者にも向いている。「愛陶家というものは、素直という状態を殊更に掘り起こしたりするのである。彼のいう素直とは、やきものの仕組みからすれば、実は無作意的作意、無邪気な邪気に他ならず、つまるところは、素直なひねくれ、ということにもなるだろう」(私の陶磁誌)
本質的に我が身は意固地だと自身でいうのだからそれは間違いのないこととして、そこにはいつもシニカルな視線、つまりなにものにも影響されず自らのアプローチで物事の根底に迫ろうとする姿があるように見える。見て感じ取ったものを言葉に置き換える能力もさることながら、著者の紡ぐ文章にはアイロニーが効いているのが面白さに変じて印象に残り、やがて痛快にも感じられるのだ。
もちろん、石黒宗麿(陶芸家 1893-1968)や山田喆(陶芸家 1898-1971)らについて書かれた短文からは、恐らく底の方に確かにある尊敬から発せられた、著者の熱くてまっすぐな、そして誠実な思いが震えるように伝わってくる。
本書からは、やきものには歓喜と諦念があることを含蓄深く語り聞かせられるのだから、陶芸家としての八木一夫を信じてみようと思うのだ。さらにこの本からは、人生には、多難な扉を次々と便利に押し開けられるカギなどないのであると教えられるのだから、直接話をしたこともないくせに、人間としての八木一夫を信じてみようと思わせる迫真があるのである。
- お薦め指数
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読み応え 資料的価値 インパクト
- 著者プロフィール
YAGI Kazuo 1918年に京都市に生まれる。1937年、京都市立美術工芸学校彫刻科卒業。国立陶磁器試験場の伝習生となり、沼田一雅に師事。1948年に京展で京都賞受賞。鈴木治、山田光、松井美介、叶哲夫と「走泥社」を結成。1954年に個展(東京・フォルム画廊)にて「ザムザ氏の散歩」を発表。1959年、オステンド国際陶芸展(ベルギー)で「鉄象嵌花器」がグランプリ受賞。1962年にプラハ国際陶芸展(チェコスロバキア)で「碑、妃」がグランプリ受賞。1965年にホアン・ミロが来日し桂離宮、信楽に同行。1971年、京都市立芸術大学美術学部陶芸科教授に就任。1973年に日本陶磁協会賞金賞受賞。1976年、「懐中の風景」(講談社)を刊行。1979年に心不全のため急逝。