工芸パースペクティブ

第1回

公募展の役割と功罪(1)

金子賢治氏(東京国立近代美術館工芸課長)に聞く

公募展がかつてのエネルギーや、新人の登竜門としての機能が失われつつあるように感じますが……

 今までの公募展というのは、落選した作は落選したままでそれっきりになってしまう。長きにわたって、落選者に対するケアはほとんどされてこなかったのが現状で、それが課題ともいえる。
 作者はなんで落ちたか理由がわからず、それが悩みにもなるし、以前入選した時とあまり変わらない作品を出品しているのに、今回はなぜ落ちるのか、というような問題が生じてくる。それは公募展自体の、各回の出品作の水準が上下するという問題と、審査員が変わるから、前の審査員はよかったけど今度は落選するという問題にもなる。
 これは変な話だが、公募展というのは展覧会でもあるので、会場の広さが決まっていて、それによって展示できる作品点数が決まってくる。つまりその点数で切ったり、入れたりする入選ラインが決まってくる。これには最初はおかしいと思っていた。いいものはいいのだから、10点でも100点だろうが、いいものを取ればいいと思っていたが、いいものという線の引き方が実はいろいろあるのが現状だ。
 仮に作品の出来の良さに1~10の段階があるとすると、平均的な5ばかりが多い公募展もあれば、1~10までバラバラの展覧会もある。そうすると、5に線を引いたのか、7に引いたかで入選ラインが変化してくる。それほど、絶対的なものというものがない。
 たとえば、今回は3くらいにラインを引かないと全部落選してしまうこともあるし、あるいは、7くらいに引かないと、過剰に入選してしまうということもある。その線の引き方次第だ。だが7とか5というのも、あくまでその公募展の今回の作品水準の7とか5であり、来年の水準としては通じない場合も多々ある。当然だが、それほど応募作品の水準というのはバラつきが見られる。
 だから公募展の審査の基本は、応募作の範囲のなかで優れた作を選べばよいということだろう。ある公募展の出品作を俯瞰して見ると、前回に較べると10のレベルのものはなく、最もいいものでも前回の水準でいう7ほどだという場合がある。だから今回はその7をレベル10として考えて選ぶという選定作業になるのだと思う。そのなかで一番よい作を賞候補に選ぶ。そしてそれらのうちから、さらに1点選んで大賞に選定すればいいということだと思う。
 大賞はいわば、その時代の制作の基準ともなるものだ。時々、大賞の「該当作なし」という発表があるが、あれはおかしいと思う。絶対的な基準がないわけだから、その年の最も優れた作に賞を出せばいい。賞を出すといって募集しているのに、出さないのは規定上おかしい。それにショーアップのための賞でもあるのだから、出さなければ盛り上がらない。
 具体的に、今回の入選の水準がここだというようなことを示すことはできず、また、もとより審査はあくまでも非常に個人的なものだ。しかし審査結果が発表され、公に出ていくときは、個人がすべて削がれて、いかにも絶対の客観的基準であるかのごとく広まっていく。それが公募展の問題点のひとつだ。そために悲喜劇を生み、応募者は一喜一憂する。しかし出品の前提として、公募展とはそういうものだと思って参加する必要もあるように思う。(……続く)

(取材・構成=編集部)

公募展に出品することで、作者は自作の客観的な評価や位置を知ることができる。

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