工芸パースペクティブ

第1回

公募展の役割と功罪(1)

金子賢治氏(東京国立近代美術館工芸課長)に聞く

作者(出品者)と公募展の関係はどうなっていますか?

 日本では、公募展を制作の主軸にしている作家がかなり多く見受けられる。自身の普段の制作はあるが力試しをしてみようとか、賞金がほしいのでダメでもいいから出してみよう、という程度ではなく、公募展に賭けている。つまり、そこで認められることがすなわち作家として認められることに直結していく。それがさらに曲解されて、ついには公募展に通りやすい作品を作ればいいと考えるようになる。しかし逆にいえば、それが作家の血や肉となってもくる。一面では問題があっても、反面は陶芸家としての芸術性を全体としてプロモートすることに現在はなっているといえる。
 また、アマチュアが公募展に出品し、徐々にレベルアップし、やがて職業作家に移行するような動向もあり、それは日本の陶芸の底上げに一役かっている。それはやきものだけでなく、人形や七宝など習い事の色合い濃いところでは、以前からあったことだった。素人がたまたま人形制作をはじめて、後に人間国宝になるというようなことが起こる可能性がある、というか、かつて実際にあった。
 それはやきものも同様で、それが広範に渡っている。やきものブームと何度かいわれていて、現在、陶芸教室が隆盛し、そこから次々と作家が供給されてくる。やきものをやりたいと思ったら、電話をするだけで土が宅配便で届けられたりする。しかも技術的な疑問があっても、陶芸教室などに問い合わせれば解決できる。問い合わせなくても、陶芸の技法書の出版点数も多い。しかも技法書だけを読んで作った人が、いきなり公募展で受賞することさえある。それほどの技法書が出版できるのは、きちんとした手作りの陶芸の技術の蓄積があるからだろう。日本には産地の歴史と集積があるから、それらの財産を誰もが共有し利用できる。興味深い現象だ。


継続的に公募展の審査をされていて、作品の変遷や傾向の違いはありますか?

 時が経つにしたがって、やはり時代の反映があるのを感じる。本格的な、いかにもこれがやきものという伝統的なものが主流だったのに、それを組み替えて、たとえば、やや暴れているような織部とか、真っ青な志野などの新しい組み替えの仕方が見られる。練込みは陶器の独壇場だったものが、磁器と練込みを融合させたものが出てきたりとか、サンドブラストという技法を陶芸に利用し、今までとは異なる現代的な感覚の作品が出品されたりする。そのように、組み替えが行われて新しいものが出てくるのは、現代の傾向といえる。
 またいわゆるオブジェでは、インスタレーション化という現象がかつてあったが、それらが沈静化し、やきものの立体造形とはどういうものかということを作者が考えて、考えを重ねたうえで作品を作るようになっている。もっとも、そうでなければ陶芸をやっている意味がないからだろう。


公募展に出品する意味とは?

 まずは、作家自身の作る作品が、客観的にどういう位置にあるのかということをつかむことだろう。作者自身が傑作のつもりでいても様々な評価をされると、再考せざるを得なかったりする。それが技術的問題だったり、スタイルの問題だったり多様な面がある。だから公募展に出品してくる。本当にこれでいいのか、やきものでこうしてもいいのか、などと皆、作者たちは疑問に思う。日本のように手作りのやきものの伝統が長く、産地もたくさんあって決まった様式があると、そういうものを作るのがやきものであって、それを踏み出るとやきものではないのではないか、と思うのが一般的な感じ方だ。
 もちろんそういうことではないのだが、しかし作者の立場となると、それを話のうえではなく、作品として認めてもらわなければ納得ができない。その作品が否定されるか肯定されるかを確かめることが、公募展に出品する重要な意味になっている。

公募展に出品することで、作者は自作の客観的な評価や位置を知ることができる。

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