
0064号
2010年08月02日更新


1936年に設立された「日本民藝館」(東京都目黒区駒場)は、民藝運動の根拠地だ。初代館長はもちろん柳宗悦、2代目は濱田庄司が務めた。
--ところで、「工藝の美」で、美と社会との関係について書いています。民衆から生じるのが工芸、美術は師であり、工芸は伴侶と記されます。工芸では個性の表出や自己主張することを諫めています。
◆どうでしょうね……。基本的には私自身の個人の考え方からすれば、工芸というのは個我の主張のために存在するものではないと思います。それにはもっと違う方法があり、たとえば美術でもなんでもいいですけれども、他のものがある。
ある特定の個人が、結果的に表に出るのは仕方がないことですが、目標として個性をどういうふうに表現するかというためには、工芸はないと思います。
--なんだか工芸が、自己犠牲の上になりたっているようにも聞こえます……
◆犠牲という気持ちはないのですが……。
たとえば10人の学生にひとつの図面を示して茶碗を作らせるとすると、絵もなにもつけなくても、全部なんとなくその人らしいんですね。同じ手本を見せて、クラス全員に山という字を書きなさいといえば、みんなそれぞれ違う字になるのではないですか? 結果的に違っちゃうのを別に個性の発露といわなくてもいいし、それをまったく同じにしてしまうのは、転写だとか、機械の思想ですよ。人がやっている限りは、結果的にはそれぞれ同じ線を引いたって同じようにはならない。
富本憲吉先生じゃないけど、1本の線を引かせてみれば、その人の人格からなにも全部見えてくるということではないでしょうか。美的感覚からね。
--声高に主張しなくても、個性は必然的に表れるということですか。柔軟というか、自然な捉え方で、ものを作るとは、本来そういうことかも知れないですが、作者としての意識や作品の主旨が付帯していないと、一般の鑑賞者には伝わりにくいという側面もあるのかも知れません。そういうことも踏まえて、柳宗悦を読んでの改めての感想をお願いします。
◆よい形で柳宗悦の思想が作り手に理解されれば、世の中のもの作りは穏やかなんで、自分をひけらかし、人を蹴落としてまで頑張らなきゃという形でのもの作りでなく、正統的なもの作りの姿が出てくるかと思いますが、このままではもの作りの生きる場所がなくなりますよ。
誰しも学校教育を多少受けると、いきなり無知になれといわれても、難しいですよね。確かに、己の無知を知ることは大切なんだけれど、己を無にすることを作り手皆に強要するという形になってしまっては……。
アメリカに柳思想の実践者がいて、日本人よりもむしろ民芸被れしているなぁという作家がいて、やっぱり用のものしか作っていません。周辺の表現主義とかにはまったく毒されていなくて、無欲無心で。その一方で、シェーカー(キリスト教の教派のひとつ。簡素で実用的な家具を作ることで知られる)の宗教的なものとの関係はありますが、ああいう考え方の立場でもの作りをしている方もいて、それは極めて柳宗悦のいう「民藝」に近いのかもしれないですね。
それから、柳は「工芸の道を、美の宗教における他力道といい得ないであろうか」と書き、もの作りに他力思想を強引に持ち込んできて、説明の材料に使っているところがあります。それはむしろ、柳が好ましいと思う工芸を通して、己の計らいを捨ててこそ成り立つ、他力本願によって成就する世界を示したかったのかも知れません。(了)
取材・構成=編集部
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【柳宗悦 YANAGI Muneyoshi 1889-1961】
東京に生まれる。父は数学者、海軍少将の楢悦。学習院高等科在学中に志賀直哉、武者小路実篤、里見弴らと「白樺」を創刊。バーナード・リーチと交友。東京帝国大学哲学科卒。宗教哲学者。東洋大、明治大、同志社大などで教鞭を執る。富本憲吉と交友。1925年に河井寛次郎、濱田庄司らと『民藝』の新語を作る。26年、「日本民藝美術館設立趣意書」発表。ハーバード大などで講師を務める。月刊誌『工藝』を創刊させる。36年に日本民藝館を開館、館長に就任。39年に『月刊民藝』創刊。講演、調査・収集などで全国を旅し民藝運動を推進。57年、文化功労者、60年に朝日文化賞受賞。