宮脇昭彦と読む「柳宗悦」

【必要でない「日本の工芸」という意識】

柳宗悦の著書を冷静に読み解き、語る宮脇昭彦氏。

--日本の工芸というか、そもそも工芸とはなにかという、本質的な問題がそこにあるような気がします。用途があってもなくても、工芸作品といっていいはずです。素材の特徴を意識しながら、自己表現として制作されたものは、用途性の有無に関わらず工芸作品といっていいと思います。
 近代化によって、西洋美術の概念が広く行きわたり、純粋美術に比べて用途のあるものは劣るというような価値観も生まれました。日本の工芸は独特で、使えても使えなくてもいい、曖昧な、中間の位置にあっても工芸品としての独自性があり、高く評価されるべきものは存在すると思います。そこで宗悦のいう、使えないものは工芸ではない、ということについて、もちろん時代や社会の背景は今とは違いますが、反近代というか、一種のヒエラルキーのようなものを感じます。
 それに宮脇先生は、使う人との距離を隔てないようにご自身との位置を保ち、用途からはあまり離れたくないというお考えですね。もちろん作者それぞれの意識と理解で作られていいわけで、使える使えないと、ものの善し悪しとはまったく別の議論です。むしろ柳宗悦のいうように、使えるものは美しいとし、使えないものは醜いと受容するところに大きな誤解が生まれているように思います。

◆使える使えないといったって、たとえば、宗悦も木喰仏などを調べたりしていて、仏像って生活のなかで、使えるの、使えないのといったらどうしますか(笑)。
 造形にはいろいろな形で、いろんなものが存在していますからね。仏教彫刻や、お寺やお寺の道具にしても、儀式で役にたっているから使われているのでしょうし、人間が生きていく上ではいろんなものがありますからね。

--宗悦は、木喰仏を、仏教彫刻として捉えているのではないでしょうか。たぶん工芸ではないという位置づけで書いていて、だから木喰作という作者名があっていいということだと思いますが……。

◆どうなんでしょうね。木喰のものは工芸という意識ではないんでしょうね。

--西洋美術の概念にすべてを委ねなくても、改めてその中間というか、そのフレームに入らない日本固有のものや価値と、西洋の考えが共存するような独自の工芸観があってもいいという気がします。

◆自分自身でも思いますし、人にもいうのですが、とくに「日本の工芸」という意識も必要ではないのではないかとも思います。
 私の意識のなかに、たとえば夏目漱石(1867-1916)が文明開化を評して、「悔し涙を流しながらの文明開化」という。また「涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない」(「現代日本の開化」1911年の講演 『朝日講演集』)といいます。そうしなければ西洋社会と接触していくうえで、この国が成立しないという意味で文明開化を受け入れざるを得ないけれども、その口惜しさもきちっと意識していなければならないというその視線は、大切だと思いますね。

--外圧による日本の近代化によって、工芸分野でも失われていくものが多くあったとは思います。西洋の概念や習慣に形式的に合わせなければならなくなった日本の運命というか、そういう日本の近代化を柳宗悦が批判し、あるいは、純粋美術に相対する日本の工芸の独自性を確立させようとした部分はあると思いますが、でもあまり感傷的になってばかりもいられないように思います。

バックナンバー