宮脇昭彦と読む「柳宗悦」

【制作の指針とは異なる宗悦の立場】

最初に柳宗悦の本を読んだのは、中学から高校にかけてだったという宮脇氏。手にする自らの文庫はかなり年季の入ったものだった。

--狭量な読み方を承知でいえば、しかし、柳は「作は無欲」といい、雑器の美は「無心の美」「個性の沈黙」ともいっています。無欲や無心にさえなれば、優れて美しい工芸品ができるとは思えず、こういう情緒的なものいいが、一部で偏った理解を生んでいるようにも思いますし、一方で、こういう表現に敏感な作者や抵抗感を持つもの作りもいるのではないか……と思います。

◆宗悦はものを見る見方を人に説く立場であって、作り手にそのものの見方をそのままシフトさせて理解しなさい、などといわれてしまうと、矛盾だらけになるというか、どうにもならないですね。

--つまり柳宗悦の著作は、鑑賞者としての立場が貫かれて書かれていると読める、ということですか?

◆いや、むしろその立場を、もっと旗色を鮮明にしてものを語るべきだろうなという気がします。そういう意味での誤解を、世の中にたくさん産んでいますからね。
 それらをそのまま作り屋に強要していくと、反発する人もいるでしょうし、柳は大所高所からものをいっている立場ですから、きっと作り手のことは無知に見えるのかも知れませんね(笑)。実際に産地に行って聞くところによると、そういう指導や扱いをされた場合もなきにしもあらず、……という感じがすることもあります。

--作る立場でありながら、客観的で冷静に読まれていますね。かなり高踏的に書かれている部分もありますし、読んでいて抵抗感はなかったですか?

◆自分のなかでは、ある程度柳宗悦という人が、一種の高踏趣味で、白樺派のグループのなかでものをいっているというような見方は、最初からあったような気がします。ですから、とくに感情的にはならなかったですね。直接ものを作る指針として、ものを作ることを教わるのとは違うと捉えていたからです。

--ものを作る前の虚心坦懐な心構えとしては、「無心の美」もいいのかもしれません。ところが、近代的な自己表現を行おうとしている作者個人と、宗悦のいう(民芸品として)優れたものの狭間では、多くの誤解が生じ、間違いが起こりやすい土壌があると思います。
 しかし「雑器」の美に視点をおいて、それを認め、位置づけたのは柳宗悦でした。

◆極めて大雑把に宗悦の美意識を位置づけてしまうと、お茶の美からきていて、茶室という限られた空間のなかでの問題としてではなく、それを生活全般に置き換えて捉え直してみることを提唱しているんだなと思います。しかしそれは、社会が全体的に文明化してくれば、英国など海外でもあるように、都会の生活者が田舎趣味を求めていくのと基本的には変わらない。
 たまたま日本には、茶の湯という村田珠光(室町時代の茶匠、侘茶の祖1423-1502)にはじまる逆転の発想というか、下手のものを逆に楽しむ見方が成立していて、それが日本のやきものの世界の中での特殊性に結びついてきているわけですから……茶陶という世界で。それは茶陶の影響を受けて、桃山時代から今日に至るまで、日本のやきものの文化のなかで連綿と受け継がれています。
 それを日本のやきものの下手の世界にも適用してきて、雑器を見るなかにその考えを持ち込んできていて、そこが柳宗悦の面白さといえば、面白さなんでしょうね。私はそんなふうに「雑器の美」を受けとめて読んでいます。だから侘茶のものの見方がなければ、柳宗悦の雑器の美は存在しないと思います。

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